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夫婦パートナーカウンセリング

夫婦パートナーカウンセリングの難しさ

 夫婦パートナー問題。これは大変難しい問題です。
目の前に浮かんできた問題だけを解決すればそれで無事終了というわけにはいきません。昨今の厳しい景気動向を反映した夫婦の収入もそうです。お子様がいた場合の教育観もそうです。実親、義理親の介護もそうです。さめてしまった愛情もそうです。こうった目の前に浮かぶ問題は、あくまで深層に横たわるより本質的な問題の引率者にすぎません。

 目の前に浮かぶ問題としてご相談者の意識にあがってきた諸事情は、他の状況や感情と絡み合い、複雑な系統を提起します。この提起を抽出すること自体も難しい。人の心に直接たち入り、その上で、悩みとして認知できる理性の文脈で認識されるからです。

 このような困難さを意識的無意識的に受け入れて、困難さを回避した上でのカウンセリングも多々あります。いわば、深層心理を探索せず、相談者の言葉によって抽出された理性の文脈としての悩みに対する対処です。この理性の文脈で理解できる相談を解決すれば、それでいいのでしょうか。

 例えば、お客さまが口頭で訴えでる悩みに対し、法的解釈を加えて処方箋を伝える。浮気に対して、客観的な証拠を収集し、その証拠を根拠に、配偶者や不貞行為の相手に対して慰謝料請求を求める内容証明を郵送する。
そのような解決は、皮相的であり一過的なものです。もちろん、社会常識に従った解決は、常に要求されるものではありますがこの処方箋が、より本質的な意味で、顧客の幸福追求権に資するに十分足るとは思いません。この不十分さの根源は、複雑な系統の抽出の失敗によるように感じます。抽出に失敗するだけでなく、むしろ口頭で理性の文脈で述べられる困惑と問題にのみ当事者が意識を集中させることも多いです。複雑な系統に目をそむけるというわけです。

映画「エデンの東」に見る本質的問題の抽出の難しさ

 みなさんは映画「エデンの東」という映画をごらんになったことはございますか。
この映画の中で、主人公を演じるジェームズ・ディーンは、父からの愛を渇望します。その渇望は、決して理性の文脈で明確に言語化はされません。ただひたすら、主人公は葛藤を行動によってのみ具現します。その葛藤ゆえ、自己への不信感に導かれるように、いわゆる不良行為に耽ります。

 そんな息子を見るにつけ、父は、友達が悪い、学校が悪い、本人の性格が悪い、と皮相的な認識しかせず、できず、その皮相的な問題解決に対処することしかしません。

 この文脈の中で、主人公は、魂の救済が得られると思いますか?

私も含め、この映画をご覧になった方々は、決して救済を得られることはないと感じるはずです。映画は、それと示唆する巧みな演出と、理解できる(しかし主人公を取り巻く人々は決して気づかない)文脈で主人公の孤独が浮き彫りにされ、その孤独に私たち観客は共鳴するようになっています。皮相的な解決を図り、現実の息子の気持ちに向き合うことを避ける父。その父から愛を渇望し、求めて止まないまま孤独の中で葛藤する主人公。映画は、父と息子の和解という癒しによって終わります。
 現実では難しい理想郷を描くことで、永遠に続く孤独と不安の葛藤に終止符を打ちました。喪失と再生を示唆して映画は完結し、観客は主人公に共鳴する感情を、劇場の外に持ち出すことなく、孤独と不安から解放され、映画に人生を重ね合わせます。

現実の葛藤

 振り返ってみて、映画の文脈を離れ、私たちが生きている現実はどうでしょうか。

この映画が示唆する同じ構図が見て取れる悩みごともあるのではないでしょうか。

いえ、あるのでは、どころか、多くの悩みや相談は、その背景に深い個人の感情が横たわっていることが多いというのが、私のキャリア上の実感です。

 離婚したい。でも本当は離婚したくない。

 浮気で悩んでいる。 本当は一番愛して欲しい。

 パートナーからの暴力で悩んでいる。別れたい。

 でも本当は、暴力だけをやめてほしい。分かれたくない。

こうした深層心理を探索することで、皮相的な解決とは逆の解決処方箋を書くこともあります。

 この体験は、私にとっても常に新鮮で驚きをもたらす体験です。人の心にたち入り、時として当人にとってもっとも直面したくない過去のトラウマと直面しなければ問題を解決できない。こういったことも私は実際に多く体験しています。

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